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ブログに綴る「私の想い」 

ピアノ篇

◎会話調で失礼致します◎


Therapist Mikiがブログを通じて、お伝えたいこと、私の想いを綴っています。

「ピアノ篇」と「セラピー篇」があります。かなり長いですが、お時間がある時にでもお読み頂けましたら幸いです。



 ©luchschen / PIXTA
 ©luchschen / PIXTA

〜PIANO篇〜


ブログをはじめたのは2011年3月頃。ブログというとっても便利なツールを活用して、私が子供のころから悩み続けたピアノのことやイギリスで学んだとても変わったアプローチのピアノ奏法のおはなし、そしてカラダのことについて(解剖学的な内容)を綴っていました。カラダの問題で悩んでいる方が日本の何処かにいるのでは?ピアノで悩んでいる人の少しでも救いになれたらいいなと思って解剖学的な考え方やアプローチもありますよ〜とご紹介をしていました。あれからもう6年。早いですね、、、最近は時間のほうが先に行ってしまうような感覚です。お歳頃かな?(笑)さてさて!「ピアノ篇」ということで、ピアノを習っている方、ピアノの先生に私からちょっとしたメッセージがあります。少々長いですが、お時間がありましたらお茶などを飲みながら気軽にお読みください。では続きをどうぞ♪

(くだけた感じで書いてあります。その点、あらかじめご了承ください。)


私は3歳の誕生日を迎えたちょうど次の日からはじめたピアノ。私の人生の前半は、悩みに悩んだピアノ生活。ピアノに関して言えば、大変な出来事の連続でした。母がクラシックに強い憧れがあって、私ももちろんクラシックの響きに癒されてピアノを弾くのは大好きだったけれど子供時代は正直なところ「辛かった」の一言しか出てこない。得意じゃないことを続けるのは、精神的にも肉体的にも堪えるというか。気持ち的にはピアノで修行しているみたいでしたね。でも母が大好きでしたから、母の気持ちや期待に少しでも応えたかった、子供ってお母さんのために頑張るでしょう?


子供心にピアノは好きだったけれど我ながら「センスないな〜」と思っていました(笑)それは私を指導してくれた先生ももちろん気付いていたと思うのですよ。ピアノの音を聴けば、その子に筋があるか!ないか?なんてすぐに分かりますよね。

「キラッと光るものがあったら良かったのにね」とある日、先生がつぶやいたのを私は今でも思い出すことがあるけれど、その一言でわかるでしょう?そう、足りないわけですよ。西洋音楽をするには何かが足りないわけです。私の中ではもう気付いていたことだから、先生がつぶやいた一言で傷ついたわけでもないし、落ち込んだわけでもないし「やっぱり、そうなんだ。」と納得できたのですよ。小学生という、とても早い段階で。私の故郷のピアノの先生はそれはもう熱心でその地域ではナンバー1と噂されるくらいのご指導をされる素晴らしい先生なのです。きっと私のピアノは小学2年で入門させてもらった時にすでに先生は気付いていたことでしょう。


悪銭苦闘しながら続けてきたピアノですが、自分のほろ苦い経験や周囲の音楽人を観察して分かったことがあります。これはあくまで私の考えですが、クラシック音楽は、猛烈に練習したからといって、どうにかなる世界じゃないし、正しく理解して正しい練習を積み重ねて、それでも芽がでるか出ないか、独り立ちして活躍できる保証なんてないとどこにもないと思うのです。素晴らしい先生に出会ったからと言って、先生のアドヴァイスをどう理解して、本人が咀嚼して自分の中に落とし込んで、ものに出来るかどうかは本人次第。この学校へ行けば、この先生に師事すれば、このメソッドを勉強すれば絶対安心、絶対大丈夫なんていう王道もないわけです。最後は自分でどうするか、とことん自分と向き合って、音楽と向き合って掴み取っていくしかない、そんな世界だと思っています。


私は音楽的なセンスはそれほどなかったけれど、だからと言って投げやりに勉強したわけでは勿論ありません。下手なりにも小学生〜高校生くらいまでは毎日2〜3時間の練習をして、熱心で素敵なピアノの先生への憧れもあり、なんとかピアノを続けていました。ピアノの本も小学生4年生くらいの時から、その当時の自分が理解できる本を買って、練習の仕方とか云々、書いてあるピアノ奏法の本を手本に練習していましたね。でもね、どうにもこうにも手が動かないことが気になって仕方なかったのです。小学2年生のときにすでに自覚症状あり。私の指は変だって。先生の手は「とても素直」に見えるのに、私の手は「強ばった」感じ。先生の手と私の手は見た目のしなやかさや動きが全く違って、ピアノから出てくる音も別次元。レベルの違いだけではない、他の理由があることには何となく気付いていました。でも当時は言葉にならなかったわけです。カラダの中の感覚をどう説明してよいのか、うまく説明ができなかったから先生に質問もままならない。結局、そんな状態のまま長い年月が過ぎていったのです。


何かがおかしいと気付いていたけれど、すっきりしない気持ちを押さえつけてピアノを続けていたのが、炎上?爆発?!(笑)したのは大学に行ってから。音楽とは全く違う方向を向かって進んでいるような気がしましたね。カラダの不具合が精神的な障害となって音楽に集中できなかったことや、西洋の音楽というものが本当の意味で分かっていなかったという事実と向き合うことになった学生時代は、それはもう自分を責めましたよね。「今まで何をやっていたんだ!」って。


それは、アメリカやイギリスで音楽を経験した時には更に大きく膨らんで、もう死にたくなるほどでした。私のこれまでの20数年間を全部やり直さないといけない!と気付かされたから。もう、どうすりゃいいのよ。辛すぎて涙も出なかった。イギリスに滞在していた頃は、芯から冷える冬の寒さや日照時間が少ないこともあって、1週間だけ寝込んだこともありました(笑)ドクターのところへ行ったら、天然由来ハーブのタブレット「カーム(英:calm=穏やかな)」を処法されて、「風邪ひいたと思ってさ。イギリスは暗いからね。留学生は一度は落ち込むのよ。心配いらないから。」って励ましてくれました。ドクターの言葉が心に沁みて、なんとなくほっとしたというか、我に返ったというか。意外に早く元気を取り戻して「地球の裏側まで来たんだから何か1つでも掴んで帰るぞっ」と自分に誓って過ごしたわけです。七転び八起き、、、失敗だらけのピアノ史も自分の中で心残りのないように、傷を残さないように、誰のせいにも、時代のせいにも、教育のせいにもしたくなかったから、自分が何を間違っていたのか、何を見落としていたのか納得がいくまでリサーチしようと思いました。


そんな中、奇跡の出会いですよね。右手の故障で数年間まるで動かなかった手をある先生の独特な指導で復帰したピアニストと出会うわけです。その方は、世界の音楽コンクールで入賞されるようなすごい人で、全く違う次元のピアノを弾く方です。なんというか、神様はどうしてこの方と私なんぞと引き合わせてくれたのか?と不思議なくらい。カラダのことで悩んでいた私の話しをそれはもう熱心に聞いてくださって。そのピアニストの師匠にあたる先生も紹介してくださいました。私のレベルで大丈夫なのかしら?とかなり不安でしたけれど、土曜日の1枠がちょうど空いているとのことで毎週土曜日13〜16時の3時間のレッスンに通うことになったわけです。


指が動かないのにレッスンしてくれるって、どういうことなの?って普通は思うでしょ?ほとんど弾けないのにいいのかな〜と私も思ったくらい。演奏時間2〜3分が限度だったかな、その当時は。指が丸まって開かなくなったり、逆に指が伸びて打鍵できなかったり。どうやってこの動かない指をなめらかに動くように指導してくださるのか、ただただ知りたい。子供に戻ったつもりでハノンでもなんでもやります!って心の準備をしてレッスンに向かいました。藁にもすがる思い、なんて言うけれどまさにそんな状況。

私が考えていたことと先生のご指導は、とても個性的で今まで一度も経験のないレッスンだったことは確かなのですが、なんと言うのでしょうね、何故かそんなに大きくはイメ-ジと違っていなかったと言うのか。それとなく気付いていたことを先生が明確に、的確に指摘して下さり、何が悪いのかも分かり、子供の頃にセンスないな〜と感じていたあれです。足りていなかったことがはっきりしたのですよ。そうそう、音楽をやっていなかった、これです。音楽を理解して弾いていないから、勝手な思い込みで練習をしていたから、肉体レベルで伝えてくるわけですね。病気とか、怪我をすることはある意味メッセージだから。ほらほら、その考え方!そのやり方!それはダメなのよって。


指を鍛えたからって、どうなるものではないよね。強い指を持っているからと言って音楽的に弾けることと、どう関係あるの?音楽するのに、筋肉を鍛える必要がどこにあるの?ハノンやチェルニーを(頭を使わずに)指の独立や指が強くなることを妄信して多大な時間と労力を費やすことに意味があるの?1日猛烈に5時間も8時間も時間を無心の練習をして、その先に上達する保証がどこにあるの?20数年抱え込んでいた心の中のもやもや、苛立ち、数々の疑問がこの一人のピアニストとその師匠との出会いでやっと私の腑に落ちたわけです。日本の中に居たら、知ることのない西洋音楽の世界の教育の在り方や、その他いろんなことが見えてきたわけです。本当のことを言えば、ずっとイギリスに居たかったかな。そのつもりで身辺整理して、荷物も実家に少しだけ預かってもらい、親や兄弟、友達にも本心は伝えずに異国への期待と夢だけを追って、誰も止められないくらいのすごい勢いで、働いたお金だけを頼りに、親戚も知人も誰も居ないイギリスへ渡りました(笑)


イギリス滞在中に、私は気になる言葉を何度も耳にしたのですよ。それはね「日本人は、プロになる前にカラダを壊してしまう」ってこと。う〜ん、日本人って大きなくくりなの?そんなに日本人に多いの?私は正直、自分のような、妙な理解の仕方ややり方で失敗の道を歩んでしまった人はそうはいないと思っていたのですよ。だから、簡単にピアノの先生に相談できずにいたわけです。迷惑をかけると思ったから。人それぞれカラダの条件も違うし、考えていることだって違う、勉強のやり方も違う、声にならない細かい悩みを抱えているともなれば、先生がその全てをカバーするなんてそれは無理でしょう?神様じゃないのだから。ピアノの先生はドクターでもないし、カウンセラーでもないし、言うなれば音楽の使者とでも言うのかな、ガイド役のような存在ですよね。手取り足取り教えてくれ〜!なんていうのを望むのは身勝手なお願いでしかないものね。先生は何でも教えてくれるっていうのは傲慢な考え方。

アドヴァイスを聞いて、そのメッセージの中に隠れた重要なポイントに気付いて、自分の肥やしにしていく、いつでもやるのは自分。学ぶ、じゃなくて、学び取る。


私がピアノをはじめた頃は、女の子はピアノを習うのが当たり前というような、そんな時代だった。あくまでも趣味ではじめたことで、その中で事件的なこと(怪我)が起こってしまったのは、趣味だからという本人(私のことね)の心構えが甘かったのと、この世界(音楽)の深さや厳しさが分かっていなかったことと、しっかりと子供時代に音楽の基礎を作って来なかったら。これです、原因は。

どこかでぐらついてしまう、上手く進めなくなるのは何でもそうですけど、原因が必ずあるでしょ?基本が大事。思い当たることが私はいくつもあったし、それをイギリスの先生が教えてくれたのは、本当に有難かった。私にとても気を遣って先生はこう言ったのね。「きっと君が元に戻るには、最低2年はかかるよ。子供に戻ったつもりで、バッハのインヴェンションあたりからやってみて。」私は、最低5年かかると思っていたから、先生の思いやりに深く感謝して、それで5年計画を立てたわけです。20数年も自分が信じてきた、凝り固まった良くない「やり方、考え方」をすぐに正しい考え方、やり方に置き換えができるとはとても思えなかったから。不器用な私には先生が言ったことを再現できるかどうかも自信がなかったけれどまずは5年。


新しい回路に置き換えができるまでは、諦めずに頑張ろうって。やり直しは正直、想像以上にきつかった。自分の過ちと向き合うのは本当に厳しいね。日本に帰国したのは、イギリスへ渡る前に、大学卒業後から社会に出て貯めた数百万のお金が底をついてきてので日本へ戻ってまた働く必要があったこと、マイナスからゼロベースへ戻すための自分で設定した目標の「ピアノ5年計画」を実行するため、それと「ピアノに関わっている日本人がどのくらいカラダに支障を来しているのか知りたい」と思ったから。まだ他にも家族のことなど理由はあるけど、主な理由はこの3つ。だから一時帰国と思って一旦帰ることにしました。それが今からちょうど15年前。


帰国後、イギリスの先生の印象的な一言「カラダの勉強しなさい」を実行するために専門学校へ足を踏み入れてみました。生理学、解剖学は、演奏法にとてつもなく関連があることにこの段階で気付きました。もしかしたら、私のようにカラダを病んでしまった人がピアノの世界に多いのなら、病んだ私が実験台になってどうやって取り戻せるのか、取り戻すのか、これがある程度ピアノのお勉強の段階にそれぞれ体系化できれば、これは救いになる人がいるのかもしれない。自分のカラダを知って、西洋の音楽を知って、そして、ピアノという楽器を知って。そうすれば、少なくとも大きく道を逸れるような人が減るかもしれない、と思ったのですよ。

音楽が好きで、憧れてピアノをはじめた人は多いですよね。最初からプロになるぞ!と思ってスタートする人はほんの一握り。ちょっとした思いつきや、きっかけで始めた趣味のピアノであったとしても、本人にとって楽しいものであって欲しい。苦しいピアノ、辛いピアノにならないように、ほんの少しだけでもいいから演奏するカラダのことを「ソルフェージュの基礎の段階」や「シンプルなエチュードなどの練習の段階」で意識してもらえたらいいなと思っています。練習のときに弾きづらい箇所や、とても困難と思えるような音形でも「カラダの使い方(運用のしかた)」(解剖学的な視点ね)を知っていれば、無理な弾き方や無駄な時間を費やすだけの疲労する練習をしなくてもすむのですよ。


西洋の音楽に向き合うって、とっても素晴らしいことだけど、とても大変なことでもありますよね。だから1つでももやもやがないように、見過ごさないように、間違えないように、ゆっくりでもいいから着実に、西洋の音楽に必要な「考え方や学び方」を知って欲しいと思っています。私は長年の失敗の中から学んだ多くのこと、そして、マイナスへ向かっていた私を救ってくれた素敵な仲間達との出会いにも恵まれました。どうにか、ピアノを弾くのに何の支障もないところまで戻って来られたのは、周囲の温かい協力があってこそ。今は怪我とは無縁の生活です。ピアノを弾いても疲れない、重くならない、痛くない、腫れない、ごく当たり前のことですが、以前の私はこれらすべてを抱えて弾いてしましたらか、もう大変だったわけです。

私のようにならないように、ピアノを心から楽しんで学んで欲しいと思っています。

もし、カラダのことでトラブルに悩んでいるのなら、マイナス方向へ向かってしまって、自力では戻って来られそうにないのなら、有料になってしまいますがメール相談もやっています。実は2011〜14年までのピアノに関する私のブログでは、かなりメールでのご相談が多かったです。ピアノを学ぶ親子からのメールだったり、ピアノの先生だったり、ピアニストの方だったり。帰国して知りたかった1つの目的、「日本にどのくらいカラダのことで悩んでいる人がいるのか?」予想よりもはるかに多かったです。


しかも、悩みのレベルがこれまた深い。カラダに関するお悩みの他にも、出てくる出てくる、、、。音楽業界(教育)に関すること、ピアノの先生に向けられたこと、音楽大学の在り方に関すること、これからの留学に関すること、コンクール制度に関すること、ピアノの道を選択すべきかその他の社会人への道を選択すべきか等、これは、私のようなエリートでもなんでもない失敗だらけの人間に何ができるというのでしょう。ピアノの指導は、大切な若者の人生を大きく左右する場合もありますよね。音楽の道か、その他の道か、岐路に立ち人生の選択に迫られる若者からの相談も多く頂きました。実際の現場(レッスン)も人生相談に近いものがありました。今はもう個人レッスンはやっていませんのでメールでのご相談だけとなりましたが。

話しを戻しますね。

多くの音楽本は、成功したメソッドですけれど私が2012年に出版させていただいたピアノの方のための本は、私の痛い失敗から学んだ本です。私個人の経験ですから、どのくらい人様のお役にたてるのか正直わかりません。この本を使い方を誤れば、ただの機械的に弾いてしまうだけのピアノの練習本(How To)に過ぎません。指がなめらかに動くとか、速く弾けるとか、大きな音が出るとか、そんなことは音楽作るうえでの条件にしかなりませんから。音楽の中で必要な要素ではあるけれど、速く弾けることや大きな音がでることがピアノの目標になってはいけないのです。それはテクニックとは言えないのですよ。音楽的に弾けるためのテクニックと指の素早い動きや爆発的に大きな音が出せるパワーを持っている等というのは、それはパフォーマンスであって、音楽とは関係のない一つの特技、得意技のようなものです。


このメッセージから掴んで欲しいのは、ピアノをただ弾くことと、クラシックのピアノを弾くことは別次元だよ、ということ。ピアノは鍵盤を押せば音が出るでしょ?半分音ができているようなもの。でも音楽的な音にするには、音をつくらないといけない。だから無造作に鍵盤を押してはいけないの。「地声」と「歌う声」は明らかに違う。だから(地声で)エチュードを弾いてはいけないのです。エチュードだって音楽なんだから、(歌う声)で音楽的に弾かれるべき作品だと私個人は考えています。

ハノンやチェルニーであってもね。

何も考えずに指が素早く動くからといって、ある程度大きな音が出せるからといって、ピアノをただ弾いているだけなら?仮に何十年それを続けたとしても、いつかは弾けるだろうと期待しても、無意識の音楽は、決して「クラシック音楽」に変身することはないのです。無意識の音楽をやっていても、その延長線上には、憧れのクラシックが弾けることにはならないということです。全く別のことをやってしまっているのですから。人間が呼吸するように、音楽にも呼吸がある、だからそれをカラダで表現(演奏)するときも、同じようにしないと、息継ぎ無しで泳ぐようなもの。筋肉を休めなかったら疲れるに決まってるよね。音楽的な呼吸に(生理的ではない)カラダの呼吸のタイミングを合わせれば良いのです。その呼吸は、練習の段階ではすこし長めに取って十分にカラダを休ませる。休めたかな〜という時間の長さは自分で判断すること。カラダの感覚はその人のもの(大変個人的なもの)だから、自分で掴むこと。解剖学のようなカラダの理論がわかるようになると、これはやっちゃいけないよね、音楽的にも、カラダ的にも。というように練習のときに自分で判断できるようになるのです。


もしこれを読んでくれている子供たち、学生さんには早い段階で気付いて欲しい。もしあなたがピアノが好きで、モーツァルトやショパンなどのクラシックのピアノを学んでいるのなら、ピアノを弾くとき、クラシック仕様でものを考えて、クラシック仕様で練習して、クラシック仕様で演奏しないと、ピアノから出てくる音楽は「クラシックピアノ」にならないのね。クラシックには様式があるでしょう?それが根底にないと、ただ音符が並んだだけの、強弱を付けただけの、速度に緩急が多少あるだけのつまらない演奏になる。どんな作曲家を弾いても全員一緒に聴こえる。これはかなり悲劇的。

ピアノが上手いとか、スゴイとか、長けてるとか、人それぞれピアノが弾けていると判断する「ものさし(ピアノが上手な基準)」がありますよね。指さえ強ければどんな曲でも弾けるとか、指が猛烈に速く回れば超絶技巧のスゴイ曲が弾けるとか、金属音のように鋭く大きな音が出せて、ピアノをダイナミックに弾くのがカッコイイとかね、こういう類いのクラシック音楽を創作することとは無関係な価値観に捕らわれているような考え方をしいているうちは、練習のやり方を間違える可能性大です。こんな考えやり方を続けることによって、その延長線上にはカラダを病んでしまうこともあるということ。私みたいに。


だからピアノを弾く前に「考え方」を変えなければダメなんだよ、ということを知って欲しい。考えがあって、演奏に繋がるわけでしょう?正しい考えを持っていれば、正しい方向で理解して演奏ができるし、誤った考えを持っていれば、誤った理解の仕方で演奏をしてしまう。シンプルな法則ですよね。原因と結果の法則。

まず、しっかりと「クラシックの音楽をするんだ」「クラシックのピアノを演奏するんだ」ということを年頭に置かないと、いつまで経っても憧れの演奏ができるようにはならないのです。クラシック音楽をするには、私は大きく3つの重要なポイントがあると思っています。


1つ目は、「頭の使い方(西洋の音楽的な考え方)」、

2つ目は、「カラダの使い方(音楽的な演奏動作、所作」

3つ目は、「ピアノの扱い方(楽器の特性の生かし方)」


クラシックをするには、多くのことを学ぶ必要があるけれど、私の専門は「カラダのこと」だから、それに関連してその他の2つを挙げてみました。1つ目は、教育による力が大きいですよね。はじめてピアノを習う人に、音楽的な云々をわかりやすく伝えるのはそれは難易度は結構高いですよね。クラシックでは、こういう考え方をするんですよ、という思想を伝えるのはそう簡単ではないですよね。○○的な視点、立場、切り口で言うならば◎◎が大切なんだよ、とか、そういうことをそれぞれのピアノの学習レベルに落とし込んで理解して、演奏で表現できるようにするのは決して易しいことではないですよね。解剖学を仮に猛烈に勉強したとするでしょう?詳しくなることは良いことだけど、現実のはなし、ピアノに応用できないのなら意味がないのです。カラダの勉強は簡単ではないし、時間も労力も結構使います。せっかく勉強した知識をピアノの学習の上手く取り入れて役に立てる為には、独立した学問と学問を「つなぐ作業」が必要になりますよね。この場合、解剖学と音楽のおはなしね。一見、遠い存在の2つの学問ですが、「演奏」という切り口で考えた場合、共通項が見えてくる。演奏する肉体の効率的なお仕事(カラダの働き)を解剖学的な視点を取り入れることは、とても有効にはたらくのです。音楽上、無駄のない動きであったり、複雑な動きを助けるだとか、エネルギーを放出できるとか、バランスの良い動きができるだとか、そういうことね。


音楽が流れるその連続した時間の中で、カラダを上手く省エネしながら(制御しながら)、音楽の先導にゆだねて敏感に反応して、違和感なく音楽を邪魔することなく、自然に動いてくれるようになる。これは理想のように思えるかもしれないけれど、カラダの機能的な理論を押さえておけば、少なくともやってはいけないこと、は見えてくるのですよ。動きを封じ込めるようなことを自分はやっていないだろうか?どうなのか?ということをチェックできる。音楽的な表現に全く関係のない力が入っていたり、無駄な大きな動作でエネルギーを消耗していないか、音楽の時間の流れに遅れていないか、あるいは早過ぎないか、重心の移動が音楽について行っているか、とかね。こういった考え方は、ある意味とても特殊なアプローチであることには変わりはないですよね。だから、こういった考え方に反論も当然ありますよね。解剖学なんてあり得ない、必要ない、混乱するだけと考える人もいるでしょう。実際、私のところにそのようなご意見やご批判が、本を出版させて頂いてから届いていますから。カラダのことを考えるというのは、決して新しい考え方ではないのですが、日本ではまだ新しい部類のアプローチなのでしょう。特に、自己流などで誤った考えややり方にどっぷり浸かっていた時間が長い人にとっては、この新しい?考え方ややり方に馴染むには苦労するかもしれません。その人独特の音楽的な常識とは全く違うことを受け入れるのに、心の抵抗がなくなるまで時間がかかりますからね。


私が失敗した原因は、子供時代に様式を踏まえてクラシックの音楽をしっかり考えていなかったから。楽譜には書いていない、楽曲の背景にあるものを勉強する、という大切なプロセスを子供の頃に身につけてこなかったからです。楽譜だけじっくり覗き込んでも様式はわからない。書いていないものをどうすればわかるようになるの?

じっくり穴があくほど覗き込んでもわからないよね、書いていないのだから。じゃあどうやって勉強する?それはね、音楽書を読むこと!これが大事ね。音楽の研究をしている学者さんが、曲の背景にあるもの、構造的に重要なポイント、その曲がクラシック音楽としてどのような作品であるか分析してあるのが音楽書。楽譜のような数百年前の古い文献には何が書いてあるのか分かるように読み解いてくれているのです。

音楽書!これを手に取らずしてクラシック音楽を自力で、あるいは、先生に師事していたとしても週に1回、月1度、数ヶ月に1度のレッスンでは全然足りません。情報量が足りないから練習のときに迷うわけ。どうやって弾いたらいいの?って。これは能力が足りないとかそういう次元の問題とは無関係。単なる情報不足だから分からなくて当然ですよね。音楽書とピアノ先生のダブルでガイド役を見方に付けると、段々こう弾かないとおかしいよね!になっていく。音楽が分かってくるとそうなる。ピアノを知らない人が楽譜を見てもなんて書いてあるかは分からないですよね、音符がただ並んでいるだけにしか見えない。でもクラシックを勉強すると楽譜になんて書いてあるか、見えない情報が見えるようになる!つまり解読できるようになるでしょ?意味が分かるってこれはスゴイことですよ。西洋の歴史を紐解いていることと同じだからね。すごくロマンがあると思いませんか?


遠く離れた国の文化がどうしてこんなに魅力的なのか、そう感じるのか、不思議ですよね。どうして未だに色あせないのか涙するほど美しくて感動できるのか?西洋の人の感覚が、楽譜という作曲家からのお手紙(メッセージ)になって、音になって蘇り音楽に乗って、心の中にすっと入り込んで来る。クラシックを学ぶことは、西洋の歴史や文化を学んでいることと同じ。ピアノを学ぶってそういうこと。芸術文化として、楽譜をもう一度見てみようよ。どんな秘密が隠れているのかな〜って?昔の人は(作曲家)は何を伝えたかったんだろうね?私達日本人には楽譜は海外の言葉(音楽語)だから正しい方法で読み解いて、1つ1つ分析してみて、更に、西洋の人の心が日本人にも分かるように翻訳されないと意味が伝わってこない。楽譜の意味を理解しないで、わからないまま演奏なんてできるはずがない。意味を理解しないまま外国語をひたすら暗記して唱えているようなもの。それには何のメッセージ性もないよね。心がないもの。「え!なぜ、そう弾かなくちゃいけないの!?」から、「はあ〜なるほどね、こう弾いて欲しいわけだね、そうかあ。」「いや〜、こんな秘密が隠れていたなんて、すごいなあ」「だから素敵に聴こえるんだね」「○○さん(作曲家)らしい発想だよね」とかね。日本人の感覚にはない、日本人にはこれは分からないかもな〜って思うことが一部作曲家の作品では度々あるけど、だから面白いわけでしょ?全く違うから面白い。だからもっと知りたくなるわけで。まあでも結構これは大変ね、理解するのに、いくつものステップを踏まないといけないわけだから。だから独学はハードルが高くなるのね。

音楽書という強い見方を付けて、あなたの先生が音楽書に書かれてあることを噛み砕いて教えてくれるはずだから、自分でできることは自分でやること。レッスン+プラスα(音楽書)が大事。これが上達の秘訣。音楽書なしにクラシックの世界を理解するのは無理です。CDをどんなに聴いても、聴き方を知らなければただ音楽が流れていくだけ。演奏家がどうやって音楽を作っているのか?何をしているか?CDを聴いてわかりますか?味わえていますか?


あくまでも私個人の感想ですが、ピアノを勉強している人や、ご指導をなさっている方で、本を読む習慣がまったくないという人がいたり、ほんの数冊しか持っていなかったり、また音楽系の論文も読まない人がいるのはとても残念だな〜と思うのですよ。本を読むのは面倒ですか?本は嫌いですか?

私は質問してみたのですが、その先生方にもしっかりご意見があって、今の子供達のピアノの指導にはそこまで専門的なクラシックの知識は必要がない、保育園の先生のような役割でとにかく音楽を嫌いにさせない程度で構わないからと親から言われている、楽器店などの経営者の考えが、生徒さんの好きにさせて欲しい、本格的なレッスンはしないことなどの縛りがある等、ピアノの先生としての本来のお仕事を求められていないと感じているというご意見も頂きました。それは、辛いですよね。私もはじめてこんなお話を伺ったとき、仰天しました。そして心が痛みました。でもね、きっと子供達の中には、(難しいけど)ピアノの世界をもっと知りたいと思っている子もいるはずです。その時、先生方は、クラシックの魅力をどう伝えますか?


このところ日本では、コンクールで勝つことが目的になっているような、最近はそんな根強い風潮もあるのも知っています。同じクラスの○○ちゃん、○○くんに勝ちたいとか、賞を取ることがピアノのお勉強の第1目標になっているような風潮も。ピアノの先生のお仕事は、コンクールで生徒さんを勝たせること(だけ)ではないですよね。それとも死活問題でしょうか。コンクール自体は、1つの目標を決めて挑戦するのですから、それはどんな結果であっても、先生にとっても、生徒さんにとっても素晴らしい思い出になり、そして人生経験になると思います。でも、コンクールへの出場回数が多すぎたり、あまりにも高い目標を設定したりと、活用のしかたを間違えると先生も生徒さんも疲弊するだけです。コンクールに出るとなると、課題曲、自由曲にのみ集中して、音楽的なそのほかの重要な勉強の時間が取れなくなる。曲の中でも学べますが、コンクールに出るとなると、とにかく弾かなくちゃいけない。だから勉強が偏るのです。生徒さんの気持ちや希望も叶えてあげたいと思うでしょうし、親御さんのコンクールへのお考えもあるでしょう。でもね、きちんとコンクールの活用術をご指導できるのはピアノの先生しかいませんから。コンクールを受ける目的や意味をしっかり伝えてあげてください。もし出場するなら、余裕を持ってしっかり準備してから、タイミングよく、生徒さんにとってコンクール出場がふさわしい時期を選べばコンクールというシステムを上手に活用できるのではないでしょうか。


コンクールのお話ですこし横道に逸れましたが、また子供達へのピアノの世界をどう伝えるか?について戻りますね。今の子供達の趣味や嗜好等の傾向は、現場でご指導されている先生方がいちばんご存知ですよね。クラシックを伝えるとき、先生方は、

どんな曲を選択してご紹介(ご披露)しますか?クラシックが嫌いな子は、きっと重苦しいとか、暗いとか、オカルト的で恐い?とか、何かしら、ネガティブな情報を持っていると思うのですよ。どうか先生方、諦めないで欲しいのですよ。一般の方(親御さん)や小さな生徒さん(子供時代)には、どうしてもこの世界のことはわかりづらいですから、クラシックは抵抗があって当然だと思うのです。だからこそ、先生方がほら〜!すごく素敵な曲があるんだけど弾いてみたいと思わない?って、ポロンポロンと、その子のキャラクターや好きそうな曲を選んで弾いてあげたら子供は目が輝くと思うのですよ。人間キレイなものが大好きじゃないですか。


そしてここが重要。先生方が魅力的にピアノをご紹介できて、クラシックの云々を語れるものがなかったら、それは全く知らない人にこの世界のことに興味を持ってもらうのは難しいと思いますよ。もっと気楽に、クラシックではないポップスのようなスタイルの作品に取って代わられ、クラシック離れと言われているのも現実問題としてありますよね。日本の場合、一見するとすごくクラシックがブームのように告知されたり、数多くの音楽雑誌が出版されている現状では、クラシック熱はまだまだ冷めていないかのようですよね。でも、生徒さんの数は減少していませんか?演奏会の足を運ぶ人はいつも同じ、限られた人ではありませんか?これは本場ヨーロッパでも同じですね。若い人がクラシックを聴かなくなっている。世界的にクラシックが時代遅れであるかのような流れも一部にはあります。ブームに敏感な生徒さんや、その親御さんのご意見も無視できるものでもないのも分かります。でも、先生達は音楽大学などで勉強してクラシックの世界を唯一語ることのできる限られた人です。せっかくピアノをご指導されるなら、ただピアノを音が並んでいればいいとか、間違えなければいいとか、気軽で楽しければいいとか、そういう次元ではなく、クラシックはクラシックピアノとして、伝えていって欲しいのです。子供にだって、クラシックの魅力はきちんと伝わると思いますよ。まずは先生方が、偉大な音楽家が遺してくれたメッセージを音楽書から吸収してどんどん自分の頭の中に、カラダの中に入れてあげることが先決です。


私たちのような日本人には、音楽書などの助けがなければ、飛行機ですぐに行けるような今の時代でもヨーロッパは遠い遠い文化なのです。もし音楽書がなかったら?(全く読まずにいたら!?)どうやって西洋の音楽を理解できるでしょうか?理解するツールがなければ、私たちのお国の文化ではない遠い海の向こうの文化を知ることは難しいのですよ。誰でも留学できるわけではないし、留学したとしても、日本人の感覚や考えのままで向こうの文化を受け入れようとしなかったなら、西洋の心はわからないままです。だから留学したからって、絶対分かるようになるなんて保証もない。私たちは日本人ですから、向こうの人にはなれないけれど、理解しようと歩みよることはできます。感覚の違いや考え方の違いを楽しめば良いのですよ。異文化交流!ですね。また、音楽以外の身近な生活の中でも、感受性を刺激して、感情の豊かさを育むような体験を取り入れているでしょうか?ピアノの前に座るだけが、音楽の勉強ではないですよね。


楽譜のおはなしに戻りますが、先生方はすでにご存知の通り、長くピアノに親しんでいる方も知っていますね?楽譜には最低限度の情報しか書いていないということ。

ということは、音楽書を読まないのは、大げさでも何でもなく、ガイドなしでヒマラヤ登頂に挑戦するようなものですよ。無謀なことや危険なこと、遠回りはやめよう。私が日本に帰国してずっと思っていたこと、それはね、クラシックの勉強のやり方を知らない人が多いなあってことね。もしかしたら教えてもらっていないのかもしれないね。レッスンだけで学び取れる力のある人というのは(表面上だけ先生の演奏を真似るのが上手いということではなく)ある程度のレベルに達していて、どんな先生からの情報も自分の頭の中で音楽的な情報処理ができるようなレベルの人。音楽的な素養があって、必要な知識があって、すでに音楽的な下地ができている人のことです。大抵はそうじゃないから、クラシック音楽の勉強のやり方そのものを学ぶ必要があると思うのね。何からはじめたらいいか?どんな勉強が必要か?日本の場合、クラシック音楽を体系的に学べるようなベースが未だに整っていないと思うのですよ。個人の先生の経験などにほとんどが頼らざるを得ないというところではないでしょうか。


優れたピアノ教師に習っているのに、上達する人となかなか進歩できない人の違いがあるのは、どうしてだと思いますか?優れた教師の言葉は、次元の違うところから降ってくるからものすごく分かりづらい時がありますよね。でもそれを理解したいと思って、音楽書や論文などの書物へ助けを求めてみると、大抵教えてくれます。上達していく人は、分からないことをそのままにしない。すぐさま友人や知人の音楽仲間に確認したり、インターネットや本や論文を手当たり次第、猛烈に調べる。リサーチャーのようなタイプの人はいつしかグンと力をつけるものです。実力の差は、リサーチ力の違いとでも言えるかもしれませんね。もし、その教師が雲の上の存在というキャラクターではなく、フレンドリーなタイプの人なら、どんどん質問してみるといい。そしてどんな資料に目を通すのがよいか、どんな本を読めばいいいのかきっと教えてくれると思う。教師(他力)と自分(自力)でレバレッジがきくから、効率よく勉強できるよね。それが実力に繋がっていく。

今の時代は、海外の名著が翻訳されてクラシックの勉強ができる環境もとても良くなっていますよね。インターネットも発達して音楽関係の論文なども検索すればすぐに読むことができるし、分からないことを音楽の辞書や楽曲解説の本などを使えば、レッスンへの準備だって、レッスン後の復習だって、昔に比べれば自分で勉強できる環境が整ってきたと思うのです。ピアノの先生と音楽書というガイド役を手に、しっかり楽譜と向き合って欲しい。そうすれば、音楽とは無関係な無意味な練習をしなくてもよいし、カラダに関わるピアノの人特有の怪我などの問題は格段に少なくなると思う。頭を使って音楽するわけだからね、そうでしょう?もう力で弾かなくてもいいし、疲れるまで時間を浪費するような無意味な練習はしなくてもいいのです。効率的に練習できて、音楽的な方向を間違いなく進んで行けるレールの上を歩いていって欲しいと願っています。


もしも、カラダのことでまだ悩みがあって自力で解決できないようなら有料になりますが、必要であればメールでご連絡ください。(info@ecpa.or.jpまた、カラダのお勉強をしてみたいな〜と思っている人は、カラダ検定という名前でピアノのお勉強に取り入れやすく、ピアノの学習段階に合わせカスタマイズした解剖学の検定100問を作ってみましたので、もしよかったらピアノの先生と生徒さんと一緒にゲーム感覚で遊びの中から自然に取り入れていってください。ご興味のある方は、メール(info@ecpa.or.jp)してみてください。


また、これはピアノの先生向けですが、生徒さんのカラダに関するお勉強のご指導やカラダ管理などを目的にしたトレーナーのような役割をするピアノトレーナーの学習についてもご用意をしてみました。ご自身の音楽家としてのカラダ管理はプロフェッショナルな人には必須です。プロのスポーツ選手と同様にです。またご指導なさっている生徒さんのカラダの管理についても「ある程度の」解剖学的な知識や人のカラダ全般の知識がどうしても必要になります。「ある程度の」というのは「どの程度か?」というと医者を目指すわけではない、医療関係の職種でもない、音楽家の方にとって必要なだけの、ピアノ教育の各段階で子供のカラダの発達や基本的なカラダの構造や働きが理解できる、心理的な作用がカラダに影響するなどといった範囲のことです。それを項目を細かく分けて、1つ1つ理解していけるように難易度も易しいから難しいまでステップ式になっています。どのくらい、何を取り入れるかはご指導の現場にいらっしゃる先生がご判断ください。もし分からないことがあればお答えしますので、いつでもご連絡ください。ピアノの音楽的なご指導の中に、もう1つ演奏するカラダ理論の1ページを増やしてみませんか?



本当にとても長い時間、おつきあい頂きまして有難うございました♪堅苦しくなく、会話調で書かせて頂きましたが、私からの率直な意見、メッセージは届きましたでしょうか。失敗だらけの私ですが、セラピストへ転身するまでの音楽を学んできた人生から得られた経験や素敵な方達との出会いは今でも宝物です。人生の中で痛い思いをして辛いことがあるからこそ強烈に気付くこともあります。苦手なことを続けた日々も、母の気持ちに応えようとした幼かった自分も、憧れのピアノの先生に褒められたくて頑張った自分も、怪我を抱えてしまったことも、海外へ思い切って行ってみたことも、これまでの自分の選択に後悔も何もありません。すべてに意味があると思っています。ピアノの学ぶ、ピアノの指導されている、多くの人に私からのメッセージが届くことを願って。心の片隅にでも、このメッセージのどこか一つでも、そっと置いてくれたら、思い出してくれたらとても嬉しいです。


Therapist Miki

(Piano Trainer)

林 美希



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